福原信三(創設者)

Fukuhara Shinzo


福原信三(1883-1948)

福原信三

1883年7月25日、東京府京橋区出雲町に福原有信、とく夫妻の三男として生まれる。中学時代は画家を志すが父親の希望に従い薬学の道にすすんだ。
1908年コロンビア大学薬学部に留学。卒業後1年間にわたりヨ-ロッパ各地を歴訪する。パリでは留学中の藤田嗣治、川島理一郎など芸術家と交流し美術への造詣を深めた。
1913年帰国。
1915年資生堂の経営に本格的に従事する。
1921年冩眞藝術社を設立。『冩眞藝術』誌を創刊し、誌上で写真芸術論「光と其諧調」を展開、写真家たちに大きな影響を与えた。
1922年ヨ-ロッパで撮影した約2000点の作品から24点を選び、初めての写真集『巴里とセイヌ』を出版。
1923年関東大震災により冩眞藝術社の活動は中断されたが、1924年日本冩眞会を結成し初代会長に就任した。
1926年写真専門の月刊誌『日本冩眞会々報』を創刊。作品の発表と共に毎号にわたり写真論、エッセイ、作品批評などを執筆した。信三の「写真による芸術」の提唱は絵画芸術の模倣に流れがちだった従来の写真観に一石を投じるものであった。

信三が生前に発表した写真集は7冊、雑誌類に発表された写真論は100余に昇るものであり、大正末から昭和初期にわたる日本近代写真の黎明期のパイオニア的存在であった。また、信三は写真のみならず、絵画、工芸、建築、デザインなど様々な分野にわたる一流の文化人と交流し、芸術家へのパトロネ-ジをはじめとするア-トディレクションの分野でも才能を発揮したが、自社の商品や広告デザインも信三の徹底した美意識の下に制作されたものであり、この生涯を通じて貫かれた妥協を許さない、美と豊かさを第一とする信念が資生堂の企業としてのスタイルの基本をかたちづくるものとなった。

略歴

明治16年(1883)
7月25日東京銀座に有信の3男として生まれる。
明治25年(1895)
日本画家、石井鼎湖に入門。
明治30年(1897)
東洋写真会に入会、宮内幸太郎の指導を受ける。
明治36年(1903)
小林萬吾・画塾・同舟会に入り、油絵を学ぶ。
明治37年(1904)
千葉医専平野一貫教授に写真化学を学ぶ。
明治39年(1906)
千葉医学専門学校(現千葉大)薬学科卒業
明治43年(1910)
米国コロンビア大学薬学部卒業。
大正 2年(1913)
ヨーロッパに渡り、ハンブルグでラドルフ、デュルコップにオイル法を学ぶ。パリで数多くのネガをつくる。12月帰国。
大正 3年(1914)
銀座資生堂の経営を担当。
大正 8年(1919)
資生堂アートギャラリー創設。
大正10年(1921)
写真芸術社を創立。月刊「写真芸術」を発刊。”光と其諧調”を唱導する。
大正13年(1924)
日本写真会を結成し、会長に推される。
大正15年(1926)
「アサヒカメラ」創刊に参画。
昭和 3年(1928)
梅原龍三郎、富本憲吉氏らによって国画会創立、評議員になる。
昭和14年(1939)
野島康三氏と国画会に写真部を開設、「巴里とセイヌ」「光と其諧調」等写真集論文集の出版も多く、資生堂社長として社業の一線に立ちながら、写真界への寄与は大きい。
昭和23年(1948)
11月4日上大崎の自邸にて逝去、享年65歳。

代表作リスト